犬だワン・健康クラブ

犬の読み物 > レトリバー(hiroさん感謝ですぅ。持つべきは友ですね〉


 私の家にはいつも犬がいた。ペットホテルがなかった昔、家を空けられない不便さはあったものの、朝夕の散歩を喜ぶ姿を見ると、世話は嫌ではなかった。生きている以上、死は避けらず、それでも悲しみは、父がすぐに連れてくる小犬の無邪気さに、薄れていった。

 ……最後の犬が亡くなって数年経っている。

 間を置いてしまうと、段々飼えなくなるのかもしれなかった。駆け足で私の側を走り去った犬たちの記憶は、犬小屋を見ると不意に浮かび上がる。
 懐かしかった。
 玄関の隣で古びていくのは、寂しいけれども、あながち悪くはなかった。

 子供は納得しなかった。近所の小犬を見るたび、頭を撫でたり、欲しいそぶりを見せる。人間に愛想を振りまくことは上手なもので、躍動感あふれる丸い体と、子供の喜んでいる顔を見ると、欲しいという気持ちと、飼っても大変だとの思いが入り混じった。
 正直、父の病気で犬の世話どころでなかった。父はがんの再発で入院していた。二度目には大きな動揺はないが、先延ばしにしている恐れが現実味を帯びてくる。生きる姿勢は強いので安心できるし、医師や看護婦も実に丁寧だった。きっと治る、こう家族は信じていた。
 自分は往復三時間、何十回も同じ順路を運転してきた。時には絶望を、そして希望もあった。手術後、入院は長期化したが、体力は少しずつ回復してきていた。入院の姿を見せたくないとの理由で見舞いを断りつづけていたが、歩けるようになると、孫の姿を見たいと言い出したので、保育園の休みには同行させる事にした。

  父は喜んだ。
  普段の無口からは想像できないほどだった。子供も日々起きた、ありふれたことを一生懸命に話していた。  こうして、休みの時には何度となく通うようになった。この途中に小さなペットショップがあった。全く気にもしなかったことが子供には興味があるらしく、店先にいる小さい犬や猫を、通過する僅かな時間に見逃すまいと、顔をガラスにくっつけている。

  一週間後、この店に寄る機会が出来た。実は家には金魚が二匹いる。祭りのときの生き残りだった。これを入れる水槽を買いに来たのである。近所の人が三匹の金魚を持ってきた。金魚すくいで持て余したのだろうと思ったが、子供にと差し出されては、いらないとは言えなかった。 その日のうちに、次々に死んで一匹になった。
 仕方がないので、次の日、金魚すくいに出掛けた。子供は喜んで挑戦したが、不慣れな手つきでは一匹もすくえなかった。もう一度金を払って自分が行った。むかし熱中した亀すくいに比べれば簡単で、気が付くと、おまけを足して5匹になった。喜ぶ我が子を見ながら、数日の命だろうと思うと、かわいそうだった。やはり同様に死んでいったが、二匹は生き残った。日を重ねると成長の違いがでて、大きいほうをデカキン、小さいほうをチビキンと呼んで、家族に加わった。
 生命力が強いのか、2匹は驚くほど立派になった。すべての備品もすべて買いかえる必要があった。そこで、病院の帰りに寄ることにした。釣り好きな父は、金魚は水槽が小さいと長くならず、風船のように丸く大きくなると得意そうに言ったが、子供は金魚の話には無関心だった。

 ペットショップは、案外奥行があって、多くの生き物がいた。水槽や水草、石などを探しながら、必要なものを揃えた。子供は店に入るなり、私の近くには来なかった。ようやく買い物をまとめて、姿を探すと、小犬のコーナーにいた。上下二段の空間が五、六列はあったろうか、そこに種類別の小犬がいた。こちらからはガラス越しなので犬には触れることなく、 マリのようにうずくまっているもの、毛布を噛んでいるもの、仰向けに寝ているもの、どれもかわいらしい姿で、それを眺める人も少なくなかった。
 隅に、檻に入れられたレトリバーがいた。おそらく成長が早いので、こちらに移されたらしく、短くて白い毛並みと、やさしそうな目が印象的だった。子供は隙間から手を入れて、小犬を撫でていた。犬のほうも、丸い目を大きく、信頼に輝かせて、甘く、手をかんでいた。
「これ、飼えないかなぁ」
 価格を見ると、売れ残ったせいか、買えない額ではなかった。 セターを今まで好んで飼っていたので、この種類も悪くない。犬は狭い檻のなかで、器用に仰向けになった。
  少し考えるという私の言葉に希望を見いだしたのか、来週行く約束で、大人しくその店を後にした。

 父の状況や犬の世話など思いを巡らしながら、案外真剣に検討した。犬は病気や災害から守ってくれるといううわさ話を信用したわけでなかったけれども、現実に父の体調を思うと、気分的にプラスになるなら決断しても良かった。ただ満足に散歩など、きちんと世話ができるかどうか問題だった。
 
  小さい頃、小犬を拾ってきた。家に犬がいるので、父は許してくれると思ったが、絶対に首を縦に振らなかった。それで、空き地にダンボールの家をつくったり、貰ってくれる人を探したり、子供ながら努力して、飼い主を探した。夕方、家に戻ってくると、飼い犬がしきりに匂いをかぐ。
「 おまえはいいなぁ、家にいられて」
 犬はこの言葉がわかったのか、悲しげな目で私を見た。
 近所でも飼ってくれる人はいなかった。それでも毎日、動き回ったが、数日後、拾ってきた犬は、忽然と目の前から消えた。私の後だけを追いかけてくる、あの姿は、かわいくて、そして、あわれだった。どうなったかと考える余裕はなく、ただ探した。遅いので心配した母が呼び戻しに来たが、私は、かたくなに暗闇のダンボールから離れなかった。

 二日後、仕事で近くを通った時も寄ってみた。犬は覚えていたのか、自分の思い入れなのか、喜んでいたように見えた。店主に話を聞くと、この種は人気があるが、成長し始めると体が大きいために価格を下げざるを得ないらしかった。さらに値引きを提示されたが、考えるとも言わなかった。何となく、命を値踏みしているようで嫌だった。
 子供は犬の話を始終していた。それを否定されないところに彼なりの希望があったようだ。
 そして一週間経った。私はまだ迷っていた。子供には、「考え中だし、もう売れてるかもしれないよ」としか伝えていなかった。店で、その時に決断しようとしていたが、 これはほとんど買うのと同様だった。世話は家族で何とかできるとも考えが変化していた。飼うなら一生面倒をみる。それが出来る自信も少しだけ出てきた。それほど、父も状態が良かった。関係なくても、家族を減らさずに、増やすことに希望があった。
 店に入ると子供は、一直線に走っていった。 しばらく、うろうろしていた子供は、私のところに、泣きながら戻ってきた。

 レトリバーは、いなかった。

「売れちゃったの?」
  真正面から見つめられて、店主は衝撃を受けたように、あいまいに頷いた。
  あの時決断をすれば、電話でひとこと言っておけば、良かったのかもしれなかった。しかし、どこか心の隅で、一瞬ほっとしていた自分を感じた。それが、非常に気分を重たくさせた。

 小さい背中は、空の檻から、いつまでも動かなかった。
 それは、あの時の私のようだった。

  次の機会は、すぐに名前を決めて、小屋も綺麗に塗りかえようと思った。ひょっとしたら、子犬を拾ってくるかもしれない。何事にも別れは来る。ほんの刹那に出会う小さな命にも、大事な人にも…。どうしようもない、さよならもあるかわりに、新たなる出会いがある。

 しばらくして、手を繋いで店を出ると、冬の弱々しい太陽が、やさしくふたりを出迎えてくれた。


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